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今日から病気も友達 (MyISBN - デザインエッグ社)

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メニエール病再発の記録

【0】はじめに
【1】再発の兆候」の予兆はあった 
【2】 耳の異常が表れたのは 
【3】 疲労蓄積のサインはあった 
【4】 耳鳴りは始まっていたかもしれない 
【5】 誰かへ、何かへの依存とメニエール病 
 【5−2】 介護に依存するのではない生き方が、できるだろうか?
【6】 独りになるということは 
【7】 アルコールへの依存傾向 
【8】 運命の日と空白の一週間 
【9】 失った友情 
【10】 キレるようになる 
【11】 怒りの焦点がずれていく 
【12】 変化の始まりと焦り 
【13】 自律神経の薬とメニエール症候群 
【14】 体が抗議し始める 
【15】 二度目の運命の日
 【15−2】 どうして疑いもなく、「空に還る」ことを信じられるのだろう?  
【16】 両親のパニック状態への対応に悩む 
【17】 心因性難聴だったらどうしたいか 
【18】 やっぱり素人の浅はかな考えでした。 
【19】 再びの疲労蓄積のサインと新しい出会い 
 【19−2】世界で一番信じてる人 
【20】 別れの理由と衝撃
 【20−2】不謹慎かもしれないが「うまい」と思った絶縁メール
【21】 不安と希望と決意・・・長い間お付き合いありがとうございました。
 【21−2】 心までメニエール病にならないようにしよう
【追記1】書きたかったのは「悲惨な話」ではありません
【追記2】傷つけてしまったという痛み

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はじめに


「メニエール病を再発させてしまった」と書いたら、
これから内リンパ嚢開放術を受ける患者さんを、
がっかりさせてしまうだろうことは、よく分かっています。

ただ、内リンパ嚢開放術を受けても、ほかにどんな治療をしても、
こういう無茶な生活を送ることで、治療の成果を台無しにしてしまうのだ、
ということを書き残し、伝えておきたいと思います。

再発させてしまったことは、
すべて私の間抜けさ、自分の耳はもう大丈夫という過信が原因です。

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再発の兆候」の予兆はあった

まずは、私の母方の祖母の介護について、ある程度お話しなければなりません。

祖母は、足腰が悪く整形外科へと通院をしておりました。
整形外科の先生は優しくて、送迎もしてくれるので、
祖母は通うのを楽しみにしておりました。

祖母には「一家の主婦は私だ」というプライドがあったらしいのですが、
ここ数年ほど、火の不始末、水道を止め忘れる、
電話をかけた後、受話器を外したまま、などが見えており、
フォローする私も疲れ気味ではありました。

また、人と話した内容を忘れてしまうことがあって、
言った言わないの騒ぎが喧嘩に発展することもしばしばありました。
特に困ったのは、金融機関の人との
「言った言わない」「聞いた聞いてない」というトラブルが起こりはじめたことでした。

また、足腰が悪くて
「頭では食事の準備をしなければ、掃除洗濯をしなければ、と思うが、現実的にはできない」
ということが、随分と祖母をイラつかせていたようでした。
ここ数年、料理をしていても、掃除洗濯をしていても、口を出してくる祖母にイラつきながらも、
「祖母の気持ちも分かるから」と言葉を飲み込んでしまっていました。

私は基礎体温表に、できるだけ体調の記録と通院の記録を残すようにしています。
そして同時に「精神的にショックだった出来事」があるかどうか、を書き、
卵巣の機能への影響を、後から検討できるようにしています。

その記録によりますと、2008年7月10日に
「祖母のことを一人で見るのは、もう限界だ」と両親に訴えた、ということが書かれてあります。

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耳の異常が表れたのは

私が「祖母を一人で見るのは限界だ。なんとかしてほしい」と両親に訴えた2日後、
祖母は腹痛を訴え、ある私立病院の救急外来を受診することになりました。

結果的に、腸穿孔を起こしていた祖母は、緊急オペを受けて
人工肛門を造っていただくこととなりました。
また、実は同じ私立病院の泌尿器科で、以前から検査中だったのですが、
尿路系の癌が進行していることも分かりました。

こうして、祖母の看病に病院へと通う日々が始まりました。

人工肛門には、抵抗はありませんでした。
人工肛門のバッグを交換するのを「手際がいいですね」と褒められると、
ものすごく嬉しくなったものです。

しかし、「看病がある」と打ち明けたことで、
私はいくつかの仕事の契約を切られました。

フリーランスは「親の死に目にも会えない覚悟はしなさい」と言われます。
契約がある以上は、たとえ親が死んだ場合でも、仕事は完遂しなければならないからです。

話し合いに応じてくれる会社もありましたし、
一時的に休業という扱いにしてくれる会社もありました。
とはいっても、新規の契約を交わしたばかりであるとか、
付き合いの浅い会社にとっては、心配するとか気の毒に思うとかよりも、
「大丈夫かこの人は?」と警戒するのもまた、仕方のないことです。

メニエール病を重症化させてしまう患者には
「自分のことを後回しにしてでも、他人のために尽くしてしまう」
という面があると言われています。

介護の場面では、
「他人のために尽くす」性格は、長所となりえます。

ただその「度合い」が問題なのです。

被介護者は「わがまま」になります。
被介護者は「自分では何もできない苛立ち」
「もしも、介護者を怒らせたら、自分はもう助けてもらえないかもしれないという不安」
を同時に抱えることになります。

そのはけ口として「もっとも静かな介護者」に暴言を吐く、
乱暴な振る舞いをする、という面が見えることがあります。

私にとっては、
「孫はろくでもない仕事をしているから、看病に長時間使っても構わない」と、
見舞い客に話す祖母の言葉が、とてもきつかったです。
「祖母の看病があるために、仕事を切られた。その上、ろくでもない仕事と言われた」
という事実は、私には重すぎました。

祖母の友人が見舞いに来てくださったときの会話です。

「ふゆうちゃん、毎日来てくれて、いいですやん」
「いえ、もう、ろくでもない仕事して、
 家で居てますさかいなぁ、別につこても構いませんねん」

この後、数分間ではありましたが、全く耳が聞こえなくなりました。

この症状はおそらく、一時的な心因性難聴であったと思われます。
大勢の聴衆の前で何かを発表するとか、スポーツの競技会などに選手として出場するとか、
そういう経験のある人は「自分の心臓の音しか聞こえない!!」という状況を
経験したことがあるでしょう。


私がこのことを、看護師さんに話すことができたのは、8月7日のことという記録があります。
「私が看病することで、祖母がイラつくようだ。他の人にはあんな言い方をしていないのに。
 私がくることで、祖母がイラつくなら、
 逆に言えば私がこなければ、イラつかなくて済むならば、私は来ないほうがいいのでしょうか?」
とお話したことが、簡単なメモに残っています。
看護師さんと話しているうちに、気持ちも少しは落ち着いて
「自分の主治医の先生に話してみる」という形で、その場は終わっているようです。

「耳が聞こえなくなった」とこの時点で、誰かに相談できていればと、悔やまれます。

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疲労蓄積のサインはあった 

メニエール病は、疲労やストレスが誘因となって、症状が表れることがあります。
そのため、メニエール病の最大の治療は
「生活習慣の改善」であると言われているくらいです。
内服、点滴、内リンパ嚢開放術も、根治療法ではありません。

このときの私の生活を振り返ってみると、
睡眠時間は4時間程度と短く、
いったん病院へ行くと6時間近くも祖母につき合わされ、
家事もして、そして仕事も・・・、という生活でした。

今になれば、祖母の気持ちもわかる気がするのです。

孫の私が介護をしているということは、
祖母は「実子の介護を受けていない」ということです。
一生懸命育てた我が子に、仕事などの事情があるにせよ
「介護はしない」と言われた祖母の気持ちは、どういうものであったでしょうか? 

あんなに一生懸命育てたのに・・・、という苛立ちを孫に転嫁していたとしても、
仕方のないことなのかもしれないと、思うのです。

さて、私の体にも疲労が蓄積し、体が悲鳴を上げるようになってきました。

8月8日(看護師さんに「困っている」と打ち明けた翌日)、手指にヘルペスができてしまいました。
ヘルペスの経験がある方はお分かりになると思うのですが、
手指の皮膚が「どろり」と溶けてしまったかのような、気味の悪い状態になります。

8月9日に月経が始まったのですが、無排卵性月経であったようです。
無排卵性月経は、いつまでも出血が止まらずだらだらと続く、という特徴があります。

このとき、婦人科の主治医T先生はノアルテン-Dを処方してくださいました。

「ノアルテン-Dを使って、出血を止めたほうが、
 おばあちゃんのところへも、行きやすいやろ」
とおっしゃったことを憶えています。

ところで、この日、私はひどい吐き気に見舞われて、
まともに話すこともできない状態で、T先生のもとを訪ねたのです。

祖母の入院先から婦人科のある公立病院へ行くには、バスを利用するのが、一番便利なのですが、
バス待ち中にひどい吐き気に襲われています。

「どうした、吐き気が強いようやけれど?」
「バス停の位置が変わってたんですよ。
 工事中のためか、カーブの真ん中くらいにあって。
 車が突っ込んでくるような感じがして、パニック障害になったの」
「あんまりしんどそうやから、プリンペラン打とうか。
 安定剤はうちでは出せないけど、プリンペランで吐き気を止めてあげたら楽になるやろ」

この会話に重要な意味があるとは思いませんでした。
後から思えばこれが、メニエール病再発のサインだったのです。

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耳鳴りは始まっていたかもしれない 

さて、祖母は泌尿器科病棟に転科をすることになりました。

お医者さんからは
「たとえ短期間であっても、家に帰らせてやることはできないか?」というお話もありました。

ただ私の正直な気持ちを言えば
「以前の祖母と今の祖母は違う。以前の祖母だったら、
 帰ってきてもらえるとなれえば、喜んで受け入れただろう。
 だけど、今の祖母は嫌だ。
 暴言を吐いたり、食事中に食器や吸飲みを叩き落したり、
 私の仕事をろくでもないと言ったりする祖母は嫌だ」というものでした。

それでも、祖母の余命は数ヶ月。
数ヶ月さえ私が我慢できるのであれば、祖母に帰ってきてもらったほうが、良いのでは・・・?

両親の意見もあって、結局祖母は一度も帰宅することなく、
8月23日に直接、泌尿器科病棟へと転科しました。
癌による疼痛の治療のため、モルヒネを投与されるようになって、
ますます訳のわからないことを言うようになった祖母を見て、
「もしも祖母を帰宅させていたら、私は祖母を憎むようになっていたかもしれない」と思いました。

2008年8月29日、この日が生きた祖母に私が会った、最後の日となりました。

この日、私自身が外科への通院予定のある日で、
親戚に祖母のことを頼んで、私は外科へ行きました。
外科のM先生に事情をお話しすると
「おばあちゃんが、おなか痛いって言ってから、受診するまでだいぶ時間が経ってるようやな。
 それでよく助かったなぁ。
 放置してたら腹膜炎で亡くなってるで。腕のえぇ先生やったんやな」
とおっしゃったのを憶えています。

そしてM先生はおっしゃいました。

「おばあちゃんの事情は分かったけど、自分の体調はどうなん? いけるんか? 
 おばあちゃん、大変なときなんは分かるけど・・・」

先にも書いたとおり、メニエール病を重症化させてしまう人には、
「自分のことは後回しにして、他人のために尽くしてしまう」というところがあります。
今思えばM先生のこの言葉は、そうした行動様式への気付きを促してくださっていたのだと思います。

M先生には、ガスターとサイトテックを大量に頂き、今後は無理をしないと約束をして、
直接、祖母の入院先へと向かいました。

親戚はよく面倒を見てくれていたのですが、
人工肛門のバッグを変えることを、親戚に頼むのは、祖母も気がひけたようでした。
頼まなかったために、バッグの中身がもれて、看護師さんに交換をしてもらったそうです。

そのような事態に付き添えなかった私に対し、祖母は相当興奮していました。


泌尿器科病棟はとても静かでした。
ただ、この病院は、増築工事を行っており、つねに「ぎゅぃーーーん」という音が響いていました。
この音は、外科病棟でも泌尿器科病棟でも、いつも聞こえており、
私にとっては「耳鳴りを消す」という役割りを、この音が果たしてしまったのです。

祖母が他界し静かな家で一人、過ごす時間が増えてから、
「この音は、耳鳴りでは?」と気づいたのです。

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誰かへ、何かへの依存とメニエール病 


2008年8月30日、ノアルテン-Dを服用しているにも関わらず、
予定外の時期に消退出血という現象が起こります。
9月4日まで、基礎体温の変化を観察しながら、ホルモン剤の使用について考える予定でしたが、
消退出血が起こってしまっては、どうしようもありません。


2008年8月31日、母方の祖母は永眠いたしました。

9月1日に通夜、9月2日に葬儀を行いました。

9月3日、喘息の先生と精神科の先生に、
祖母のことで心を砕いてくださったお礼を申し上げました。
祖母の入院中に
「デパスを出して」「ドグマチールを出して」と、私はわがままを申し上げました。
「看病が終わるまで」という約束で聞き入れてくださった先生方に、
心よりのお礼を申し上げました。

9月4日、婦人科の先生に会ったとき、
真っ先に「ごめんな、先生」と言ったことが、今でも思い出されます。

「どうしたん? ノアルテン-Dの使い方、間違えた?」
「祖母が亡くなりました」
「あっ・・・それは・・・しょうがないわ。基礎体温表つけてるどころやないやろ」
「はい」
「よう頑張ったな。ほんまによう頑張ったよ」

抗うつ剤「ドグマチール」は、安心な薬ではあるのですが、
乳汁分泌を促してしまったり、生理不順になったりするという副作用があります。

婦人科や外科(乳腺)で治療を受けている私は、
「できるだけ早く、ドグマチールを止める」という約束を交わした上で、
この薬を使用していました。
実際に、9月11日には使用を停止しています。

両親が、忌引きをとって家にいた間は、そうでもなかったのですが、
本当に家に一人取り残されると、たくさんの戸惑うことが出てきました。

私は介護をすることで、祖母を支えていたつもりでした。
自分のことは後回しにして、祖母のことを優先してきたつもりでした。

しかしそれは「介護するということへの依存」ではなかったのかと、今となっては思います。
昨年の暮れ頃になって、自分の思いを書いた記事がありますので、
もう一度ここにコピーしておきます。

自分を抑えて他人の欲求を優先させる。

それが本当に「献身」と呼べる行為ならば、すばらしいことかもしれません。
しかし、メニエール病を重症化させてしまう人のなかには
「他人からの賞賛を期待する」という傾向があるということも、知られています。
この記事を読み返すと、私は自分でも、そのことに気づいていたのだろうと、思います。


■介護に依存するのではない生き方が、できるだろうか?

祖母の生前中、いつも「祖母がこの料理を食べられるか」という基準で、献立をきめていた。
新しい家電製品を買うとき「祖母が使い方を憶えられるか」という基準で、選んでいた。
「祖母ができないことは、自分がやる」という基準で、行動をきめていた。

突然「今日からは、何を作ってもいいよ」といわれると、何を作っていいか分からなくなった。
「今日からは、あなたが使いやすい家電を買っていいよ」といわれると、選べなくなった。
「今日からは、全部自分の裁量でやっていいよ」と言われても、どうやって手を抜いていいのか、
どこまで完璧にやったらいいのか、分からなくなった。

ご飯は、祖母と食べることが当たり前だったので、両親とは残念ながら何年も、
一緒に食べたことがなかった。だから突然、両親と自分が食卓を囲むことになっても、
どうしたらいいのか、まったく分からなかった。どういう顔をして、何を食べて、
どのくらいのペースで食べ終わったらいいのか、まったく分からなかった。

「祖母の介護・介助をする」といえば、聞こえはいい。

ただ、自分の場合には介護という言葉の陰に隠れ、祖母の存在に依存していただけではないのか、
と、家事の「程度」に戸惑うたびに思う。

祖母は残念ながら、新しい家電製品を買っても、使い方を憶えられないことが多かった。
その分、家族に頼りきりになって生活せざるを得なかった。
家族のなかでも、仕事で疲れていて、なんとなくどうしてもきつい言葉で対応する者よりは、
普段から一緒にいて、言葉のペース配分が分かっている者に聞くほうが、
安心できたという面があるだろう。
しかし、あまりにも、祖母から同じことを何度も聞かれるたびに、不安になったこともある。

私がいなかったら、祖母はどうなるのだろう?

祖母への思いをたてに、私自身の判断や欲求を後回しにして、祖母の希望を優先させたこともある。
このことは、私自身が祖母という存在に依存していたことの表れではないだろうか。

「まずは祖母のやりたいことを優先させる」

これは一見、美しい行為だけれど、裏を返せば、私が自分の人生を自分で判断しない、
という生き方でもある。

今後、親の介護なども、自分にかかってくる。そのときに、介護に依存するのではない生き方が、
自分にできるだろうか?

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独りになるということは 

2008年9月17日、精神科の先生から「独りになる」ことについて、注意を促されました。

「脅かすわけではありませんが、少し注意してほしいことがあります。
 家に独りで過ごす時間が長くなるわけですし、女性が一軒家で生活をするということは、
 結構こわいものです。
 そのために、一時的に不安が強くなったり、不眠になったり、
 パニック障害が悪化したりする可能性もあります。
 そういうのは、必ず良くなりますから、少し注意して生活してくださいね。無理はしないように」

今となっては、このお話をもっと真剣に、受け止めていればよかったと、反省することが多いです。

実際に、吐き気がする、不安が強い、という書き込みが、基礎体温表や喘息手帳に増えています。
ナウゼリン、デパスなどを服用しながら、なんとか乗り切っていたようです。

そして、独りで過ごすということは、会話というものをしないので
「難聴になっても、気づかない」ということでもありました。

10月1日に、Sさんという人のところへ、会いに行く約束をしていました。
Sさんは外科のお医者さんです。

実は、祖母が入院する3日ほど前、Sさんに会って話していました。
Sさんは、お医者さんのためのカラー写真がふんだんに掲載された本を出して、
内臓の写真などを見せてくれました。
その中に「穿孔した腸の写真」があったようです。

Sさんは後に
「おいおい、私があんな写真を見せてしまったから、
 おばあちゃんが悪くなったんやないんやろな?」と、
ちょっと気にしていたとおっしゃいました。

久しぶりに会えるSさんに、
「時期的に自分の誕生日の直前なので、誕生日おめでとうって書いてもらおう」
と勝手に決めて、楽しみにしていました。


Sさんと会う約束をしてから、実際に会うまでの期間、
私の記録は頓服薬の服薬内容しか書かれていません。
これは「体調が悪い」ということを、意識するのが怖かったのです。

会う約束を、体調のせいで守れなくなったら、すごくすごくすごく残念だから、
なるべく頭から排除しようとしたのです。

ただ、鎮痛剤を何度も重ねて飲んでしまうといったことがあってはならないので、
「何時何分、ボルタレンSR」とかのメモだけは書いてあります。

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アルコールへの依存傾向 

2008年9月28日、一通のメールが届きました。
「めまいの待合室」という本が出版されるという内容のメールでした。

めまいの待合室 北原 糺

ちなみに、ポリッツァー学会のページに、この先生の写真が掲載されています。
こちらのほうが本物に近いように思います。
書籍は単色刷りの写真なので、限界もあるのかもしれませんね。
http://www.politzersociety.org/Previous/Cleveland.htm

写真に写っているとおり、K先生は本当に気さくで優しい先生です。
私はこんなすばらしい先生に、内リンパ嚢開放術を施術していただいたのだ。
これからも、自分なりの情報発信を続けて、K先生や他の患者さんのお役に立てるよう、
私の力など微々たるものだけれど、それでも頑張ろうという思いを新たにしました。

こんなすばらしい先生に、コーヒーにかつお節を入れると・・・、
とか話していた自分が恥ずかしい・・・。


10月1日、久しぶりに会ったSさんは、意外なことを言いました。

「酒、飲みすぎてるやろ」

図星、とはいえないまでも、痛いところを突かれたのは事実でした。
私はこのとき、日本酒2杯とビール1本は必ず飲んでいたように思います。

Sさんは言いました。

「私が心配しているのは、量やないねん。
 今の量そのものは、すぐに大問題になるっていう事はないと思う。
 ただ、段々酒量が増えていたところや、酒がなければ料理用の酒を無理やり開けてでも飲む、
 というふうになってきたところが、問題やったと思う」
「やっぱり、そうですよね」
「あのな、アル中(アルコール依存症)の人ってな、ヘアトニックでも飲むっていう場合がある」
「えぇえ!!」
「まだ、料理用の酒をあけて、というくらいなら、可愛いもんやと思えるけど、
 やっぱりそこで『ないから我慢するか』っていうのが普通やんか」
「はい」
「我慢できんからって、料理用の酒を空けて飲む、っていうのは、ちょっとやっぱりな」
「はい」
「まぁ、コンビニに行ってこよ、と思って服でも着替えてるうちに冷静になれるかもしれへんから、
 まぁ、今後は、我慢するかコンビニに行くか。料理酒はあけない!!」
「はい!!」

そういう約束をしました。

メニエール病を重症化させてしまう患者には、
真面目で几帳面、細かいことを気にするという性格の傾向があると言われています。
これは悪く言えば、頑固で融通が利かず、とことんまでやり抜かなければ気がすまない、
ということの裏返しでもあります。

いったん酒を飲み始めると、真面目に几帳面に、酒量が増えていってしまう。
そのままでは、下手をするとアルコール依存症に陥ります。

ちなみに、アルコール依存症をはじめ、様々な依存症になる人というのも、
真面目で向上心が強く「こうあるべし」と自分を縛ってしまうタイプが多いといわれています。

とはいえ、救いの道もあります。
それは、依存症に陥る手前で他人から「それはおかしい!!」と指摘されることです。

「昨日、初めて酒に接した人が、今日すぐに依存症になる」ということは、ありません。
初めて酒を飲んでから、依存症に陥るまでのどこかで、
誰かに「おかしい」と指摘される機会があれば、我に返ることができるかもしれないのです。

しかし、いったん「アルコールしか見えない」状態になって、
家族や友達との絆が断ち切られてしまったら、
誰も「おかしい」と指摘してくれる人はいなくなります。

私にもこのとき、そうした危険性が大いにありましたが、
Sさんに指摘されたことは、本当に幸いでした。

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運命の日と空白の一週間 

2008年10月7日、この日は半年に一度の聴力検査の日でした。
通い慣れた病院ですので、特に不安も緊張もなく、
「帰りにはガストによろうかな」と考える余裕もありました。

しかしこの日、耳鼻科の現在の主治医の先生は、意外な事を言いました。

「どうしたん? 調子悪かったかな?」
「え? 何も悪くは・・・」
「ほら、聴力ね、低音部が聴こえなくなってる。メニエール病の治療を再スタートしましょう」

言葉が出ないほどの驚きでした。

「めまい、耳鳴り、その他、何もなかったとは考えづらいんですけど、いかがですか?」
「えぇ・・・? あ!!」
「あ?」

「あの、急に今言われたのでびっくりしてるんですけど、
 パニック障害とか、そういう問題だと思って、デパスとかを飲んでやりすごしたことはあります。
 あと、吐き気とか、ふらふらする感じ(浮動感)というのは、
 パニック障害だった場合と見分けがつかないので・・・」
「まぁ、分かる気はします。ストレスがかかったら、
 メニエール病が悪化することもあるし、まったく精神科の問題と、
 この難聴、メニエール病の症状が別のものかどうかって、私も問われたら分からないですね」
「そうですよね」
「ただ、聴力は落ちているという現実があるので、
 メニエール病の症状が出てたことは、多分間違いないでしょう」

このときの気持ちは「煤i ̄□ ̄)やられたぜ!!」という感じでした。

そう、一気にすべての事象が思い起こされ
「あれはメニエール病再発の兆候、というか『再発の兆候』の予兆だったのか」
と気付かされたのです。

「で、イソバイドを出します」
「はい (心の声::煤i ̄□ ̄)やられたぜ!!)」
「今日からすぐ飲めとはいいませんが、もしも悪くなったら服薬して、また受診を必ずしてくださいね」
「はい (心の声::煤i ̄□ ̄)やられたぜ!!)」
「次の予約は半年後にしますが、それは厳密に守らなくてもいいので、悪くなったら受診してください」
「はい (心の声::煤i ̄□ ̄)やられたぜ!!)」

ただ一つ、現在の主治医の先生にお聞きしたことがあります。

「あの、私が鈍感だから?」
「え?」
「精神科の症状と思い込んでて、分からなくて」
「あぁ、鈍感いうのとは、ちょっと違うと思いますけどね」

この質問に、どういう意味があったのか、私自身もわからないのです。
ただあまりにも急の出来事で、本当に驚き、うろたえて発した質問だといえます。

肝心のこの日から一週間ほど、私の基礎体温表、喘息手帳には、まったく記入がなくなっています。
日付すら書いていません。

完全なる空白の状態です。

よほどのショックで、何も書きたくなくなったのでしょう。


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失った友情

2008年10月16日から、喘息手帳と基礎体温表への記録が再び始まっています。
しかしその内容は投げ遣り、いい加減、鎮痛剤の使用状況もまるで分からないような書き方です。

おそらくは不正出血が始まってしまったために、とりあえずは記録を再開したものの、
意欲的に書くということはなかったのです。
その証拠に、2,3日ほど続いて、不正出血が止まると、
記録内容も投げ遣り、いい加減、飛ばし飛ばしになっています。

実はこのとき、私には気になっていることがありました。
相手方のプライバシー保護のため、日付をぼかして書きます。

私は介護中であったために、ある方の結婚式への出席ができませんでした。
本当はその人の結婚式に、出席したい気持ちは強かったのです。

ただ、父方の祖母、母方の祖母、二人ともがいつどうなるか分からない状態では、
直前になってキャンセルする可能性も高く、迷った末に出席を辞退しました。
お祝いは祖母の介護の合間に、時間を見つけて選び、贈らせていただきました。

祖母が亡くなったこと、私が体調を崩していることは、
結婚式後のいつのタイミングでお伝えすれば、
相手方のお祝い気分を壊さなくて済むかと悩みました。


ちなみに、メニエール病を重症化させてしまう患者には
「他人の目を気にする」という性格の傾向があります。
このことは、ちょうど良い程度に気にする分には、人間関係を円滑にしてくれる、
すばらしい特質となります。

しかし過剰に気にするようになると、患者本人にとっても苦しいし、
周りにとっても「気を使わせていることが分かって苦しい」という状態になります。

特に冠婚葬祭のことで気を使ったり、使われたり、あるいは失礼なことがあったりすると、
お互いに一生の思い出となって残ってしまいますので、
うまくいく方法があればいいのにと、今も思います。


さて、こうした悩みの中に、ある方からの救いのメッセージが届きます。
「そのような悩み事というのは、すぐに解決はできないだろうし、多くの人が悩む事態だと思う。
 ストレスがなくゆったりとした生活を送るように、というのが
 メニエール病患者へのアドバイスとして言われているが、
 非現実的なアドバイスをしても、どうしようもない場合もある。
 そういう場合に、メニエール病を悪化させないためには次のことを守ろう。
 ●水分を良くとり、運動をして汗をかくことを、心がけよう。
 ●そうすることで、体の実質的ストレスを減らすことができ、内耳への影響を抑えられる。
 ●またイソバイドを飲むなら、適量を見つけるということも大事」

私はこの日から、買い物に行くときなどに、少し早足で歩くことを心がけたり、
生姜湯を飲んだりという努力を、少しずつですが、始めるようになります。

11月のある日、私のもとへ一つの小包が届きます。
小包に入っていた、結婚式へ出られなかった私へのメッセージ。

それは「この人は、今後の付き合いはやめたいと思っているんだな」と、思えるものでした。

友達だからこそ「介護で忙しい」ということは、わかってくれると思った。
でも、その相手にしてみれば、
友達だからこそ「介護を差し置いてでも結婚式に出てほしい」という思いがあったのかもしれない。

この連絡をほぼ最後として、残念ながらこの友達との絆は、失われてしまったのだと思います。

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キレるようになる

2008年11月15日、喪中ハガキを印刷する作業をしていました。
数日前からいくつかのデザインを両親に示し、文章を書き上げ、この日は印刷作業をしていました。
13時ごろから、徐々に体調が悪くなり始め、吐き気やめまいを覚えていたようです。
メニエール病の症状とは違って、不安感が強く息も速く浅くなっていました。

この日を境に、冷や汗をかいて吐き気がする、という日が徐々に増えています。

このころ、不正出血があまりにも続くからと、
婦人科でルナベル配合錠を処方されるようになっていました。
出血が止まった日は11月30日だけで、
後は毎日、32日間に渡って出血があった記録があります(あまり記憶には残ってないのですが)。
ルナベル配合錠は健康保険の適用もありますし、
色々な低用量ピルを飲んだ中では私に合うと思える低用量ピルでしたので、
服用しているという安心感がありました。

しかし残念ながら、事態は悪化してしまいます。

2008年11月後半から12月にかけてははほとんど、
「生ける屍」という言葉がぴったりの過ごし方をしていました。

人間は二つのことを同時に考えることはできません。
メニエール病より大変なことがあれば、まず、その「大変なこと」に対処するものです。

●身体の症状としては
・朝起きられない。何時間でも眠ってしまう。
・食事はロクに取れない。食べなくてもおなかが空かない。
・お医者さんに「口が渇いて舌に歯型が残っている」といわれる
・急性胃腸炎にかかる頻度が高くなる

●精神的な症状としては
・ろくでもない仕事といわれたことが、頭からはなれない
・切られた仕事のことばかり考えてしまう
・死にたいというより、水が蒸発するかのように消えてしまいたい

このような状態では、メニエール病のことを考えるどころでは、ないのです。

そして、母の言葉が耳に残って離れませんでした。
「祖母の介護をしてくれるようには頼んだけれど、
 それは『最低限の介護』を頼んだだけであって、
 『熱心にやってほしい』とは頼んでいない。
 『熱心に』介護をしたのは、ふゆうの勝手なのだから、
 それで体調を崩そうとも、失業しようとも、知らない」

12月19日、外科のM先生に
「この言葉を忘れられなくて、苦しいんだ」と話しています。
M先生は腹部の診察をしながら
「それを言った人を、許してあげられるといいねんけど」と言葉をかけてくださいました。

「許す」という言葉を意識したのは、このときが初めでした。
「許す」というのは、相手のためでもあるけれど、
それ以上に「自分のため」に大切なこと。

それに気づくのは、数ヶ月後のこととなります。

今となっては、母の言葉も
『一人で介護させて悪かったなぁ』と思っているところへ、
ふゆうが病気になるという思わぬ形で、現実として突きつけられ、
右往左往してしまった結果の、とっさの言葉だったのだろうと思います。
しかし、それに気づくことは、当時の私はできませんでした。

私は時々「キレる」ようになっていました。
さすがに暴力を振るうわけにはいきませんので、
突然、家事をやめてしまうとか、
両親が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、
両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。


さらに両親が、
「何か不満があるのなら、いってほしい」と言ったときには、
私は言うてはならないことを言いました。

「仕事と耳と卵巣を元に戻して」

こう言ったら、両親はもう何も言えなくなってしまいます。
わかりながら、そういったのです。

「そうだよ、勝手に介護したんだから、
 そして自分でメニエール病を再発させたんだから、
 自分で卵巣の機能を止めてしまったんだから、もう放っておいてくれ」


自分の精神状態は荒れるのを通り越し、やがて無気力になっていきました。
食事をろくに取っていないのに、体が浮腫んで体重は増加しました。

体のむくみは、メニエール病を悪化させます。
メニエール病(内リンパ水腫)は内耳のむくみですので、
体全体がむくんでいるときには、当然ながら内耳のむくみも悪化するのです。

それでも何とか、自分の心身の状態を向上させようと、
12月24日に精神科の先生に「抗うつ剤を出してほしい」とお願いしています。
しかし先生の返事は
「気持ちは分かるが、今はおばあちゃんがいなくなったことで、動揺しているのだから、
 そういう気持ちを抗うつ剤で抑えるべきではない。大丈夫ですから」でした。

12月には、良いこともありました。
それは私が送ったクリスマスカードを、お医者さんたちが喜んでくださったことです。

外科のM先生は、12月19日の診察のときに「ほら、ここに飾ってるで!!」と、
診察室の机の上に飾って見せてくださったものでした。
また、内リンパ嚢開放術の執刀医の先生からも、お礼のメールを頂きました。
他の先生からも「ありがとう」と言われて、喜んでもらえてよかったと心から思いました。


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怒りの焦点がずれていく

2009年1月10日夜に、めまいを感じてイソバイドを服用したというメモがあります。
この日のことは、はっきりいって記憶にありません。

記憶にあるのは翌日、1月11日のことです。
朝起きたら、体調がとんでもないことになっていました。
回転性めまい、喘息、腹痛、吐き気、不正出血と、ありとあらゆる症状が一気に襲ってきたのです。
イソバイド、ボルタレンSR、ナウゼリン、デパスと、
家にあるだけの薬を飲んでしまいそうな勢いでした。

そしてはっきりと難聴になっていることは、感じました。
家族の声が、音としては聞こえるのですが、
何を言っているのか分からない、という状態が続いたものでした。

1月13日に内科医院を受診。
「喉が腫れているんで、風邪の薬を飲んで、喘息を悪化させないようにしよう。
 それと無理をせずにゆっくり休んで、風邪を治しましょう。
 風邪を引いたり、メニエール病の症状が出たりするってことは、
 体のどこかに無理が来てるってことやから、まずは休んで」と先生はおっしゃいました。

それから再び、喘息手帳への記録は途切れています。
体調の悪化により、記入する気力がなかったのでしょう。


1月21日、Sさんに会うことができました。Sさんに
「メニエール病のこと」
「内リンパ嚢開放術のこと、執刀医の先生のこと」
「友人から絶縁されたこと」を話していることが、喘息手帳に記録されています。

1月22日、再びルナベル配合錠を飲み始めました。
しかし、普段以上に強い副作用(だるい、不正出血など)に戸惑っている様子が、
一時的に記録された後、体調はがさらに激烈に悪化し、記録がなくなっています。

この時期のうつ状態は、ものすごいひどいものでした。
体は動かない、食事は取れない、何時間も眠り続けるかと思えばまったく眠らない日もある、
など、ひどい状態が続きました。

そして相変わらず、両親と弟とはうまくいきませんでした。
家事をしない日があったり、
両親や弟が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、
両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。

両親の気持ちが変化し始めていることは、わかっていました。
「一人で介護をさせて悪かった」と思っていることは十分、わかっていました。

「今になってそれを言うなら、介護を代わって欲しかった」という言葉が
私の口から出ることを、両親が恐れていることはわかっていました。

「代わって欲しいと頼んだのに、何もしなかったじゃないか」
「私の仕事をろくでもないと思ってるから、一人で介護をさせたんだ」
「どうせみんな、祖母と同じじゃないか」
「どうせみんな、私のことをろくでもない人間だと思っているんだ」

これらの言葉を言ったら、両親や弟の心を痛めてしまう。
悪かったと思っているところを、さらに攻撃してしまう。
顔を合わせたら、言わなくてもいいことを、言ってしまう。

だから私は「会わない」ことで「言わない」で済まそうとしたのです。

そして、矛盾するようですが、もう一つの思いが私の中にはありました。

「介護を丸投げしたこと」を私は怒ってはいるけれども、
それと「メニエール病のことは別」だと思うようになったのです。

しかしどうやら、両親や弟は
「一人で介護させた結果として、メニエール病が再発してしまった」ことを、
どう受け止めていいか分からない状態になっている、
問題を混同しているということに、私は気づいていたからです。


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変化の始まりと焦り 

2009年2月6日、外科のM先生から「転勤する」と告げられました。
「でも、良かったやん。後任はS先生やで」と。

「私が腸穿孔の写真を見せたせいで、ふゆうのおばあちゃんが悪くなったんか?」
と気にしていたSさんが、M先生の後任として赴任されることになったのです。

「S先生は、僕の後そのまま引き継いで、外来担当されると思うから、一番初めに入れとこう」
「なんてことを!!」
朝の9時なんかに入れるんじゃない・・・。どんなに早く起きなあかんの・・・。

「まぁ、ふゆうさんのサマリーは書かんでも、S先生がよくご存知やと思うから」
「はい」
「そう言っといて」

「M先生、元気でね」
「うん、じゃあ(笑)」

そして、これがM先生の最後の診察になりました。

M先生に、祖母の人工肛門のこと、バッグの交換のこと、
聞いてもらってずいぶん楽になったことを思い出したら、まぶたが熱くなりました。
結果的にはM先生に「がんばれよ」と、疲れていた気持ちを癒してもらった2日後に、
祖母は天国へと旅立ったのでした。

2月17日、意を決して家族に訴えることにしました。
「家事を二日間だけ、休ませて欲しい」と。

その前に、「掃除機をかけながらごみを拾ったら、立てなくなった」ということがありました。
立とうとしても足に力が入らず、かといって「立てない」と焦るわけでもない。
そんな自分が少し怖くもありました。

内科医院の先生にその話をしてみると
「よくわからないなぁ・・・。自律神経の問題かなぁ・・・。
 食べられなくなったら点滴するけど・・・」とおっしゃいました。

それでともかく、家族に話してみました。

「すみません、どうにもならない事態になってきたので、
 2日間だけ家事を休ませてほしいんですけど・・・」

家族の衝撃度合いというのは、まぁすごいものでしたが、
それでもともかく「一週間、他の家族でやってみる」という話になりました。
その上で「今後は、ふゆう一人の負担にならない方法を考えようと思う」とも。

そして、実際この1週間というものは、本当に楽をさしてもらいました。

さて、うつ状態というのは、本当にひどいときは、何も考えられないものです。
しかし、少し元気になってくると「考える」というよりは「焦り」という気持ちが出てきます。

「こうして楽をさせてもらっているのに、私の体調が良くならないのは、
 いわゆる『怠け』なのではないか?」

冷静に考えてみると、単に休養が足らないだけなのですが、
少しでも元気になってくると焦り始める。

この心理は、真面目で几帳面なメニエール病患者の方には、よく分かっていただけるでしょう。
私もたった1日休んだだけで、2日目には焦りを感じるようになりました。

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自律神経の薬とメニエール症候群 

2009年2月23日、婦人科のT先生に「自律神経の薬を飲みたいです」と申し出ました。

「どうしたん、いきなり」
「布団から起きられへんようになって。で、内科医院と精神科医院で
 『自律神経の薬を出せば、改善する可能性はある。
 あるけれども、婦人科の薬(ルナベル配合錠)を飲んでいる人に、
 どういう影響があるのか、私には分からない』といわれて」
「あぁ、なるほど。まず、自律神経系の薬を同時に飲んでも、矛盾はありませんよ」
「あ、そうなんですか」
「そしてまた、ホルモンのバランスを、人工的に調整しているのだから、
 体調に影響が出ることもありますね」
「そうですか」
「でも、全部婦人科の影響かって言ったら、そういうこともないと思うけど」

T先生が選んでくださったのは、カルナクリンという薬でした。
ルナベル配合錠をやめて、ホルモンバランスを自然な状態に戻してみて、
カルナクリンを服用しながら経過を見る、という方法を示してくださいました。

「カルナクリンは、メニエール症候群にも使うことがありますよ。耳も良くなったらえぇのになぁ」
「ありがとうございます」

結果的にはこのカルナクリンが効いたのか、体調は良い方向に向かいました。

3月5日、再び婦人科のT先生の前に立ったときには、T先生は「驚いた」とおっしゃいました。

「ものすごい良くなってるよな、前に比べて。
 前来たときは、どうしようかと思うほどやったからな」
「はい、めっちゃ楽です」
「前と全然ちゃうもんなぁ。びっくりするくらい、今の方がいいわ」
「それ、内科の先生も言ってはって、前来たときは、どうしようと思ったって」
「カルナクリンを出したんは、結果的には僕やけど、
 内科の先生の自律神経っていう言葉がなかったら、どうしようもなかったからなぁ。
 さすが、内科の先生は、よく診てはるわ。前も言ったけど、
 カルナクリンは、メニエール症候群にも使うことがありますよ。耳も良くなったらえぇのになぁ」
「ありがとうございます」

予定通り、しばらくカルナクリンを続けながら、自力で排卵を起こすことができるかどうか、
排卵があった場合のPMSや月経困難症の程度はどうか、といったことを観察することになります。

「もし、次のときまた、死にそうになっとったら、ごめん」
「死にそうになること自体はいいねんけど、
 ふゆうさんの場合は、死にそうになっても、病院へは来るやろ?」
「うん」
「それやったら安心や」

こんな冗談も出るくらいの余裕が、生まれていました。


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体が抗議し始める 


2009年3月8日、父方祖母の容態が悪いという連絡が入ります。

そして3月14日朝、父方祖母は天国へと旅立ちました。

通夜や葬儀の間に、喘息になってしまったら困るので、
すぐに喘息の先生に気管支拡張剤をいただきに行きました。
そして、仕事は急いで片付け、取引先への連絡も済ませてから、斎場へ向かいました。

先の母方祖母のときの教訓から、今度は取引先にご迷惑とならないようにと、常に考えていました。

ただ、斎場について親族控え室に入ろうとしたとき、私は大きく体のバランスを崩します。
従姉妹が慌てて駆け寄ってくれますが「大丈夫、ごめん」と言っただけで、
その出来事はそのまま忘れました。

その出来事を思い出したのは、それから4時間ほど経ったときのことです。
通夜ぶるまいの席で「聴こえが悪いかも・・・」と気づいたのです。

しかしこのときは、誰にも言わないでおこうと決めました。

大事な葬儀の席で、そんな話をして家族や親戚、
そして亡き祖母に迷惑をかけるべきではないと、そう思ったのです。

3月19日、葬儀の終わった翌々日から不正出血が起こり始めます。
基礎体温表の波形を見ると、どうやら無排卵のままのようです。
あぁ、せっかく良い方向に向かっていると、お医者さんに喜んでもらえたのに・・・。

でもT先生は落ち着いていました。
このくらいなら、ホルモン剤を使って止血するようなものではないので、
次の周期も自力で排卵が起こせるかどうかを観察しましょう、と励ましてくださいます。

3月29日、少なくとも3年ほどはおさまっていたはずの乳腺症が、いきなり再発します。
乳腺症自体は良性の疾患ですが、
乳汁(母乳)が溢れてしまっていることに気づかないままでいると、
下着が汚れたり、(私の場合は)皮膚炎になったり、湯船を汚してしまったりします。

4月3日、外科でS先生に診察していただくことが決まっています。
S先生に初めて会ったのは、乳腺症にかかったことがきっかけでした。

このたび、いきなり乳腺症が再発したことに驚きながらも
「そんなにS先生を待ち兼ねていたのかな」と考えます。

不正出血、メニエール病の症状、そして乳腺症の再発というこの流れを見ると、
もしかしたら「体が悲鳴とまでは言わないが、無茶を繰り返していた私への抗議の声を上げている」
という状態だったのかもしれません。

4月7日、耳鼻科での聴力検査を受けます。


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二度目の運命の日 

2009年4月7日、この日は二度目の運命の日となりました。
この日に書いた文章がありますので、そのままここにコピーしておきます。

■どうして疑いもなく、「空に還る」ことを信じられるのだろう?

人間は自由に空を飛ぶことなど、まだまだできない。
でも、自分の寿命が尽きたとき、この空に還っていくことができると、どこかで信じている。

桜の木の下で、そんなことを考えていた、今日の朝の話。

今日は耳鼻科へ行った。先生が「先、オージオ(オージオグラム、聴力検査)しといて」
とおっしゃったので、そのようにする。

オージオグラムが済んでから、先生のところへ行く。
実は、呼ばれたのが聞えなくて、先生が何度か呼んでくださった。

「こんにちは。ちょっと具合悪かったかな?」
「え、あ、え、あの、呼び出されたのに聞えなくて、すみません」
「それはいいねんけど、難聴の程度が進んでるねぇ」
「・・・え、あ、え・・・」←どんだけ慌ててるねん自分・・・。

「症状は、どうやったんかな? なんか困ることは、なかったかな?」
「めまいは、なかったんですけど、あの前のとき、急に難聴を言われてびっくりして、
 そのまま言えなかったんですけど、あの、半年前に祖母が亡くなって忙しかった。
 それで、今も、実はもう一人の祖母が亡くなって・・・」←慌てて返答している私
「あぁあ・・・、そうやったんか・・・。それでまた出てしまったかなぁ・・・。
 今現在はめまいが出る前の段階なんやと思うわ、僕は。
 だから、イソバイドねぇ、飲みにくいやろうけど、
 少なくとも聴こえがちょっとでも改善するまでは、飲んだほうがいいと思うねん」
「はい」
「2週間分出しとくけど・・・、足らんやろなぁ・・・、
 まぁ薬だけでもいいんで、改善しなかったら来て欲しいねん」
「はい、来ます」

「あ、あの、イソバイドは美味しいと思うんです」
「そうですか。まぁ、そんな人はあまりいてへんと思うけどね」
「はははは」
「まぁ、飲んでもらう方がいいので・・・。それと、次回の予約やけど・・・」
「多分、自分で思うには、半年後とかにしてもらうと、我慢してしまって来ないかも・・・」
「それやったら、二ヵ月後に一回、来てもらおうか。
 それまででも、聴こえが改善しないようやったら、イソバイド取りに来て」
「はい」

前は、診察が終わったら、もうショックでショックで、廊下が波打って見えるほど、
ショックだった。でも、今回はそこまでのことはなかった。

そして処方箋もらって薬局へ行った。薬の説明をしてくださった。
「イソバイドは飲み辛いとは思うんですけど」
「私、結構好きなんですよ。イケてると思うんですよ」
「・・・私は、長いこと薬剤師をしてますけど、そういう人を見たのは、ふゆうさんが初めてです」
「はうう(TT)・・・」

病院から駅まで、バスで帰る方法もあるんだけど、実は歩いても大した距離じゃない。
病院へ行くときはバスに乗るけど、帰りは歩くことにしている。

半年前、病院の帰りに歩いた道。秋口だったけれど、暖かかった。
空が青くて高く、暖かい空気のなかにも「ぴーん」と緊張させてくれる何かが、
混じり始めていたのを思い出す。

今日も、同じ道を歩いた。桜があちこちで咲いていて、優しい空気に包まれているような感じがした。
桜の木の下から、ふと青い空を見上げたときに、
桜の優しさと「空」というもののもつ懐の深さを感じて、少し涙がにじんだ。

人間は自由に空を飛ぶことなど、まだまだできない。
でも、自分の寿命が尽きたとき、この空に還っていくことができると、どこかで信じている。

どうして疑いもなく、「空に還る」ことを信じられるのだろう?
私はどうして、桜の木の下で、こんなことを考えているのだろう?
私はさっき難聴の程度が悪化していると言われて、
ショックを受けたはずなのに、どうしてこんな関係のないことを、考えているのだろう?

何を言われても
「いずれみんな、空に還ることができるのだから、大丈夫」と思えてしまうのは、なぜだろう?

桜に囲まれた優しい空の下で、そんなことを考えていた、今日のお昼前。


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両親のパニック状態への対応に悩む 

2009年4月8日、咳が止まらず痰がたまった感じがして大変困り、喘息の先生のところへ行きました。
咳止め、痰きりなどの薬を手際よく処方してくださる先生に、ついつい甘えてしまいました。

「あの、メニエール病のことでちょっと悩んでるんですけど・・・」
「ん?」
「あの、祖母の介護を結局一人でしてしまって、その途中で耳が悪くなったんです。
 それで、両親が『耳が悪くなるほど大変なんやったら、言ってくれれば交代してたのに』
 って言って、パニック状態になってる」
「うん」
「私は両親のパニックになっている気持ちを、どう受け止めればいいんでしょう?」

「ふゆうさんの場合は、もともとメニエール病があるやん?
 介護うんぬんを抜きにしても、悪くなってた可能性はあるやん?」
「はい、あります」
「それを言えばいいんちゃうかな。
 ご両親の気持ちは、私は分かる気がする。
 一人でさしてることを、ずーっと気になってたと思う。
 だから『介護、看病うんぬんとは別に、悪くなった可能性はある』と言う風に、
 根気良く伝えるのがいいんちゃうかな?」
「根気良く・・・」
「うん。ご両親も、すぐには納得できんと思うから、分かるまで言うしかないよな」
「根気良く・・・」
「そうそう。いずれは伝わると思うから、大丈夫や」
「はい。ありがとうございました」

もしかしたら、私はめちゃくちゃ冷たい考えをしているのかもしれませんが。

「今さら『交代してたのに』と言われても。言うくらいなら交代してみせてほしかった」
という不満が、私にあるのは確かです。
だけど、時間を巻き戻して交代することができない以上は、
「交代しなかった」っていう事実を、引き受けてもらうしかありません。

これは、私の側にも言えます。
もっと強く「協力して欲しい」と言っていたら、状況は違っていたかもしれないのです。

でも、それを「強く言わなかった」「伝わっていなかった」という事実や、
その結果起こってしまったことは、私が引き受けるしかないと思っています。

私は自分の状況を受け入れて、改善の努力をすることで手一杯で、
人の気持ちをどうこうできるだけのパワーは、この当時はありませんでした。

少なくとも、両親のパニックにつられて、私が一緒に落ち込んでたらどうしようもないので、
もっともっと強くならなければと、思ったのでした。


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心因性難聴だったらどうしたいか 

2009年4月8日夜から、腹痛がして下痢気味でもあり、
ブスコパンやロペミンを飲む回数が増えていきます。
痛みというのは、一度や二度のことなら耐えられますが、
痛みが続くようになると、気分が落ち込むようになっていきます。

そしてこのとき、気分の落ち込みはやがて一つの疑問と不満へと繋がってしまいました。

4月14日、喘息の先生が私の体調を色々と聞いてくださいました。
排卵があった(ように見える)ために、少し胃腸の調子が悪くなったといった話の後のことです。

「で、メニエール病のことはどう?」
「あ、あの、実は自分で心因性難聴じゃないの? って思いが捨てきれないんですよ」
「・・・知ってると思うけど、心因性難聴かどうかっていうのは、
 基本的に、あらゆる身体的な検査をして、異常が無い場合に心因性ではないですか、ということになる。
 除外診断という方法になるんですね。
 この症状があったら心因性という判断の仕方では、ないんですね」
「はい。そうですね」
「ふゆうさんの場合には、内耳に異常があることは確かなんで、
 心因性難聴という断定ができるかというと、難しいんちゃうかなぁ・・・」
「あの、身体的な異常の程度が1とか2しかなくても、
 症状が10、20出るというケースも、心因性の場合があるとか・・・」
「それはあり得ますね。その部分は、私は内科なので診断ができないけれども・・・」

「なんで、そういう風に思ったんかな?」
「めまいとかなくて、いきなり難聴だけ言われたというのと、
 あとは祖母の介護とか、家族とのこととかがあって、
 『もう誰の言葉も聴きたくない』っていう思いがこういう形になってるんかなって、思いました」
「なるほどね。N先生(精神科)のところへは?」
「明日行く」
「N先生は心の専門家の先生やから、一回聞いてみるといいわ」
「はい」
「まぁ、心因性難聴という発想にはびっくりしたけど、
 N先生やったら、何かいい考えがあるかもしれへんから」

ありがとうございました。

4月15日、精神科のN先生のところへ行きました。
ものすごく混んでいたので、いきなり本題に入りました。

「あの、心因性難聴かなぁって・・・」
「・・・ずいぶん、いきなりですね」
「今日は混んでるみたいですしね」

N先生は、身体的な治療や検査について、たずねました。
イソバイドを飲んでいること、聴力検査を行ったことを、お話しました。

「それは、再発したという前提で、病気の程度を調べるための検査ですね。
 除外診断をするための精査まではいってないと・・・」
「はい、そうです」

「ところで、ふゆうさんは『心因性難聴ですよ』と言われたら、どうしたいですか?」
「え?」
「私としては、H先生(喘息の先生)と同じく、
 ふゆうさんの場合には心因性という断定は難しいと思う」
「はい」
「ただ、あなたが心因性という言葉を見つけてきたということは、
 なぜそう思うか、どうすれば解決に向かうとあなたが考えているかを探っていくことで、
 症状が楽になる可能性はあると思いますのでね」

「・・・だった場合に・・・、だった場合に・・・どうすれば・・・どうすれば・・・」
「それは、今すぐ答えるのは難しいですか?」
「あの、多分なんですけど、祖母が暴言を吐いたことを、
 私が許せるかどうか、という点じゃないかと・・・」

「あぁ、なるほど、それは正解の一つかもしれませんね」
「はい」
「もしもどうしても答えられないが、とても苦しいとか、
 答えられたとしてもとても苦しいという場合には、
 リーゼとかデパスとかその系列の薬を活用するという方法もありますのでね」
「はい」

「ただ、心因性難聴という断定は、ふゆうさんの場合には難しいです。
 身体の治療を受けてくださいね」
「あ、あの、耳鼻科の先生に、心因性難聴かどうか、
 その可能性があるかどうかは、聞いてみてもいいでしょうか?」
「それは、大丈夫でしょう。先生の診断を否定するような言い方ではなくて、
『気になっているところが、あるんです』という言い方なら、大丈夫ですよ」

ありがとうございました。

このころ、一つの不安が首をもたげるようになります。

「イソバイドの瓶が家にあると(冷蔵庫にしまってあると)、
 これまでの経緯があるので、家族が気を使ってしまうのでは?」ということ。

元気な人は、イソバイドを飲みません。
イソバイドの瓶がそのあたりにごろごろと、存在するということは、
「何か治療をしている」ということが分かってしまうということ。

先にも書きましたが、私は「介護を丸投げされた」ということそのものは、腹が立っていました。
また、被介護者の暴言に関しても、
「本心ではなかったのかもしれない」という思いがありながらも、やっぱり腹が立っています。

だけど、それと、メニエール病とは別です。

今思えば、この気持ちをきちんと話す機会を設けるべきでした。
この後もう一度、家族を同じ気持ちにさせてしまう出来事が起こってしまうのです。


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やっぱり素人の浅はかな考えでした。 

2009年2月ごろ、私の体重は2キロほど増えていました。
しかし、4月に入り、イソバイドを飲み始めて1週間もすると、体重は再び元の値に戻っていました。
イソバイドは経口浸透圧利尿剤で、むくみをとる作用がありますので、
自律神経の乱れによってむくんでいた体が、元に戻り始めたのかもしれません。

4月21日、夕方に耳が聞こえなくなった(めまいはない)というメモがあります。
このときは、月経困難症の真っ只中で、食欲もなく、精神的にも不安を持ちやすく、
些細なことで悲しくなったりしている様子が、記録に残っています。

やはりこうした心身のストレスが、メニエール病の症状を誘発するのでしょう。

4月28日、耳鼻科の先生のところへ行きました。

「どうした、調子悪かったかな?」
「えと、一個疑問があって、あの・・・」
「はい」
「えと、あの(←相変わらず慌て気味)、ある人からの暴言を聞かされ続けていて、
 その後で耳が悪くなったので、心因性のものじゃないのかと、精神科の先生に聞いてみました。
 すると、手術までした経緯があって、内耳に異常があることが明らかなんで、
 心因性という断定が難しいんちゃうかなって、言われたんです」
「心因・・・、心因というか、ストレスがもとで、メニエール病の症状が誘発されることはありますよ」
「はい。あの、ただ、めまいとかなくて、いきなり難聴だけ言われたんで、
 あの、暴言を聞くのがいやになって・・・」

「あぁ、ふゆうさんの言うのは、暴言をシャットアウトしたくて心因性難聴になったかどうか?」
「そうそう、それ!!」
「ないないないない(笑)。それはないわ。
 もしもそういう場合には、オージオグラムがこういう波形にならないんですよね」
「そうなんですか」

「そう、ただね。
 心因・・・ストレスやな、ストレスの関連がゼロかといわれれば、それもまた難しい。
 話を聞いてると、介護という、健康な人でもストレスがたまる状況やったみたいやん。
 もともとの体質のようなものとして、内耳にトラブルがあるとして、
 ストレスが誘因となって、症状が悪化するということはあるよ」
「はい」
「ただ、僕たちもよく『因果関係を証明しろ』といわれるんやけど、できないことが多いねんな、なかなか」
「そうなんですか」
「なかなかねぇ、断定できるかというと難しいことが多くてね」
「はい、ありがとうございます」

やっぱり素人の浅はかな考えでした。

話は変わりますが、前々から、工務店さんに自宅の塗装をお願いしよう、という計画があり、
5月の初旬から取り掛かっていただくことに、話が決まります。
ゴールデンウィークがあけたら、職人さんが家にいらっしゃることになり、
期間は2週間ほどというお話でした。

しかしこのことに関して、再び私は間違いを犯してしまいます。


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再びの疲労蓄積のサインと新しい出会い 

2009年5月11日、自宅の塗装を始めることとなります。
しかし、塗装前の屋根や屋根裏の点検で
一部の木材が腐っており、これを放置すると、屋根が落ちてしまう可能性がある、
ということが判明しました。

この工務店さんは、信頼の置ける工務店さんで、余計なリフォーム工事を勧めるという
悪質なお店ではありません。

木材の補修をしてから塗装工事に入る、という計画に変更になります。
当初2週間の予定でしたが、3週間程度の期間を見てほしいといわれます。
雨の日など作業のできない日もありましたので、結果的には4週間かかりました。

その間、毎日10時と3時のお茶とお菓子を、職人さんの人数分、用意してお出ししました。
職人さんたちは丁寧で愛想良く、いつも「ありがとうございます」と言ってくださって、
なんだか嬉しかったです。
またいつもお盆を返しに来てくれて「ごちそうさまでした」とおっしゃいました。

ただやはり、4週間もかかっての工事となると困ったことも起こりました。

私はフリーランスで、パソコンさえあれば仕事ができます。時間の自由も利きます。

とはいっても、一歩も家から出ないということは難しく、
資料や消耗品を買いに行くとか、家事のための買い物などもありますし、病院へ行くこともあります。
こうした時間をどいうやって確保するのか、本当に困りました。

何よりも「知らない人が常に自宅にいる」ということは、けっこう落ち着かないものです。

少しずつではありますが確実に、疲労は蓄積していきました。

この頃、楽しい出会いがありました。
精神科のN先生の医院に、若いL先生が常勤されるようになります。N先生が
「ふゆうさんは、色んな人と会って見識を広めておくことが、良い仕事をできることに繋がるでしょう」
と勧めてくださり、私は本当に美しい男性だと評判のL先生の診察を受けることになりました。

5月12日、L先生の診察室を訪ねました。

「ここのところ、調子はいかがですか?」
「5日と6日に、少し体調が悪かったけれど、他は問題ありませんでした」
「この内リンパ嚢開放術という手術の病名は、何だったのですか?」
「メニエール病です」
「内リンパ水腫、ですね」
「はい。あの、8年間治っていたのですが
(治っていたという表現は語弊があるかもしれませんが、話の流れでそう言いました)、
 介護があって、終わってから急に悪くなりました」
「はぁあ、なるほど。それだと、心因性の可能性はありますね?」

そうそう、そうなんです、先生もそう思うでしょ!! 私もそう思ったの!!!

っていうのがホントの気持ちでした。

「そうなんです。私もそう思って耳鼻科の先生にお話ししたんです。
 ただ心因性難聴だとオージオグラムがこういう波形にならないんですよって言われて・・・」

心因性という言葉を喜ぶ、ちょっとへんな患者となってしまいました。

5月26日、体調の変化の兆しが現れはじめます。
当初は軽い喉の痛みを感じ、風邪を引いたかなぁと考えていました。
さらに乳腺症の症状が、再び出てしまい、皮膚炎を起こすようになります。

5月末、予定通りに進まない工事にイラついた気持ちになり、
私は何かの弾みで「もう誰も家に来てほしくない。うんざりだ」と言ったことがあります。
それは本音ではありました。しかし、不用意に発言しすぎたとも、感じています。

「ふゆうに一人で対処させることが、ふゆうの負担になっているのかもしれない」
と家族が気にし始めたように思います。

さて、軽い風邪や、乳腺症そのものは、ものすごく心配な症状ではありませんが、
私の場合には「疲労がたまっている、心身のバランスが崩れている」というサインとして、
症状が出る場合があります。

この頃、「誰かを信頼する」ということについて、少し考えたことがありました。
そのころに書いた文章をここへコピーしておきます。

■世界で一番信じてる人

私はこの季節になると思い出してしまう、ちょっとつらい思い出がある。

ある日、友人だと思っていた人から「欠陥品」とののしられた。
それは私の身体的な特徴(ちなみに婦人科のことです)をあげて、
ひどくののしる言葉とともに、言われた。

私はこのときから
「人を信じることで、傷つくということが嫌だ。もう誰も信じるものか」と思うようになった。

こんな私にも、今は信じることのできる人がいる。
とはいっても「信じられる」とはどういうことだろうか? 
考えても考えても、簡単に答えが見つからなかったのだけれど。

「私は、他の人には耳のことを話せないでいるけれど、
 この人にだけは『耳が聴こえなくなったから、嫌われるかも』なんて心配は、
 一切したことはなかった」と思った。

「信じられる」というのは、そういうことなのだろう。

たった一度だけ
「友達になれる?」「なるよ」という会話を交わしただけだけれど、ただずっと信じている。
世界で一番、信じている。


さて、話は戻りますが、身体に疲労が蓄積しているようなので、
メニエール病の症状が出ないように、気をつけなければいけないと思い始めます。

そこへ、一通のメールが届きます。


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別れの理由と衝撃 

2009年6月1日、ある一通のメールが届きます。
相手方のプライバシー保護のため、どういう関係の人かというのは書きませんが、
少なくとも私にとっては、大切な存在の人でした。

その日書いた文章がありますので、ここにそのままコピーをしておきます。


■不謹慎かもしれないが「うまい」と思った絶縁メール

「私はふゆうと付き合いたいと思っているが、配偶者が病気の人との付き合いを嫌がっている。
 だから今後のお付き合いは、遠慮したい」という絶縁メールが来た。

不謹慎かもしれないが「うまい」と思った。こういう言い方もあるのか、と。

この言い方だと「確実に絶縁」できて、
なおかつ「絶縁したいのは自分じゃない」と主張できる。
さらに数年が経ったとき「配偶者を説得した」といって復縁できる可能性もある。

私は配偶者の方と面識がないし、事実がどうだったのかの確認もできない。
おそらく「押しかけていって、本当にそう言ったのかを確認する」なんてことは、大人ならしない。

うまい。ぐぅの音も出ない。

正直、私自身も今だに「ショック」よりも「感心」が勝ってしまってる。

ただ、くれぐれもお断りしておくが「言い方がうまい」と思っただけで
「病気を理由に絶縁することに、心から賛成、納得している」というわけではない。
逆に私以外の誰かが、病気になった場合に、
そのことを理由に絶縁するっていうのは、私は考えないし。

もしも万が一本当に、そういう意見を心から言うような「配偶者」がいたら、
そういう差別的な感情を持つ人と一緒に暮らすのも、結構大変だと思ってしまう。
でも、この点は真偽の確かめようがない。

借金を頼まれたときに「私は貸してあげたいのだけれど、親が決して許さないんだ」
といった言い方で、断ることがある。それと似ているのだろう。
「嘘も方便」って言葉に近いのかなぁ。

うーん、うなった。。。


6月2日、この絶縁メールを受け取った翌日は、耳鼻科の予約がある日でした。


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不安と希望と決意・・・長い間お付き合いありがとうございました。 

2009年6月2日、耳鼻科の予約どおりの時間に、病院へ行きました。先に聴力検査をします。

「どうでした、上り調子じゃなかったんとちゃうかな?」
「え? え? え? 良くなってる予定やったんですけど・・・」
「それやったらいいよ(笑)」
「あ、いいんですか(笑)?」
「うん、ちょっと良くなってるといっても、がーんと回復してるわけやないからさ、
 どうやろと思って」
「あ、良くなってると思ってた」
「それやったら、それでいいねんけど。ただイソバイドをしばらく続けたほうがいいな」

2週間後に予約を入れてくださいました。

現在の主治医の先生には、今まで話さずに来てしまった事実がありました。
それは、このブログとホームページを作っているのが私である、ということです。
この日は何を思ったのか、素直にその事実をお話しすることができました。

その日の夜、私は一つの不安に襲われます。

「冷蔵庫に、イソバイドがごろごろあったら、家族が気を遣ってしまうかもしれない・・・」

不安は徐々に大きくなり、吐き気や速くて浅い呼吸、喉が詰まって食事をうまくとれない、
といった症状へと発展していきます。

6月4日、自力ではどうにもならないと感じ、精神科のL先生に診察と投薬をお願いします。
デパスがほしいと申し出たところ「それは、どういう理由ですか?」と尋ねられます。

「あの、2日に耳鼻科へ行ったんですが、思ったより良くなってなくて、
 イソバイドをいっぱい処方されました」
「はい」
「イソバイドというのは、500ミリリットルのでかいビンなのです」
「はい・・・えっと、私はイソバイドという薬を良く知らないのですが・・・」
「あ、あの、経口浸透圧利尿剤で・・・」
「あ、あぁあ、内リンパ水腫だってお話でしたね」
「はい、そうなんです。それで大瓶が家にごろごろあると(冷蔵庫にしまってあると)、
 家族に治療を受けていることが、分かってしまいます」
「そうですね」
「それで、夕方になって両親が仕事から帰ってくる頃になると、
 耳が悪いことについて何か聞かれたり、気を遣わせたりすることが、不安になってくるんです」
「あぁ、なるほど。分かりました。それでは、デパスは飲まれたことはありますか?」
「はい!! はるか昔だけど・・・」
「はははは、はるか昔・・・。何ミリとか、憶えてますか?」
「何ミリまでは・・・あ、介護中にもらったことがあります。多分、昨年の8月!!」
「あ、ほんとですね、0.5ミリですね。何回分くらい要りますか?」
「とりあえず、7回」
「じゃあ、お出ししておきますね」

こうして、7回分のデパスを頂くことができました。
不安というのはゼロにすることが大事ではなく、
自分で受け止めることができるようになることが、本来は大事です。

なんでもかんでも、デパスを使って抑えてしまうというのはよくありません。
しかしこのときは、デパスをいただいたことで、うまく対処ができるようになりました。

そしてまた、介護・看病をしていたときのことを、思いました。
直接、祖母の介護をしていたのは自分ですが、
それを支えてくれた人がたくさんいたのだ、ということを思いました。

デパスを出してくれたN先生。
ノアルテン-Dで不正出血を止めようとしてくださったT先生。
「自分は大丈夫なんか?」と声をかけてくださったM先生。
気管支拡張剤や咳止めを出してくださったH先生。腸穿孔の写真のことを気にしてくださったSさん。
そして真っ先に難聴に気づいてくださった耳鼻科の主治医の先生。
水分の取り方やイソバイドの使い方を説き聞かせてくださった、内リンパ嚢開放術の執刀医の先生。

私が祖母の介護を心行くまでできるようにと、
様々に気を配ってくださった先生がこんなにも何人もいらっしゃったのです。

介護とメニエール病の再発。それがほぼ同時に起こってしまったからでしょうか、
私は、様々なことを考えました。

家族、友人、仕事、健康状態。

それらの自分が積み上げてきたものを、どんどん引き剥がされて、
弱くて醜い自分だけが残されたような気分に、いつの間にかなっていました。

でも、本当は自分に残されたものが、たくさんある。

自分の醜さを跳ね除けようとか、押さえ込んでしまおうとか、
そういうことにエネルギーを費やしていると、
いつまでも自分に残されたたくさんのものに、目を向けられないのではないか。

まずは、醜い自分を受け入れられるようになろう。

そのことに、思いがいたりました。

6月11日、「内リンパ嚢開放術を受けた話」のホームページに
「心までメニエール病にならないようにしよう」という思いを書き綴りました。
記録が現在へと追いついてきましたので、その文章をもう一度ここへコピーさせていただき、
それを結びとして「メニエール病再発の記録」を、いったん終了とさせていただきます。

まだ私とメニエール病との付き合いは続いていきますので、
その記録はこれからも、書き続けていきます。

長い間のお付き合い、本当にありがとうございました。

■心までメニエール病にならないようにしよう

心がメニエール病のことで一杯になってしまったら、他のものが入ってくる余地がなくなる。
楽しい話を聞いても、それを「楽しい」と感じる余裕がなくなってしまう。
悲しい話を聞いても、共感し涙を流すということが、できなくなってしまう。

だから「心までメニエール病にならないようにしよう」と決めた。

人間は「曖昧な状態」では弱くなり「決める」ことができると強くなることができるように思う。

たとえば「今から夕飯を作る」と決めたら、
たとえめまいや耳鳴りが強くても、なんとか作ることができる。
でも「今日は夕飯作ろうかな、それとも誰かに家事を代わってもらおうかな・・・?」
と迷っていると、弱くなる。サボってしまう事だってある。

それと同じ。「心まで病気に奪われないようにする」と決めたら、本当にそうなった。

先日「病気の人との付き合いをしたくない」という考えの人から、絶縁メールをもらった。
以前の私だったら、そういう人にどう接していただろう。
取りすがり、纏わりついてでも、その人の考えを変えてもらおうと、必死になったかもしれない。

でも今は、不思議と落ち着いている。

「そういう人がいるのが、現実というものだ」って、思ってる。

その人に取りすがり、纏わりついてこっちを向いてもらいたくなるってことは
「私の心がメニエール病を意識しすぎている」ということだと、今なら分かる。

たとえば
「背の高い人が好き」
「背の低い人の方がいい」
「同じアーティストを好きな人がいい」
「違うアーティストを好きな人と情報交換がしたい」
「メガネをかけている人がいい」
「化粧の薄い人がいい」
など、人に対する好みというのは、様々だ。

それと同じレベルの話とするのは不謹慎かもしれないが、
それでも「病気の人は嫌い」っていう人がいても、仕方ないのかもしれない。

「病気の人は嫌い」っていうと「ひどい人ね!!」って言われるけど、
「外見が嫌い」って言うのと変わらない。
むしろ「外見が嫌い」って言われたら、なんかもう立ち直れないけれど、
病気だったら「治す」っていう手段がある。

心までメニエール病にならないようにしよう。心をメニエール病で一杯にしないようにしよう。

そうして、世界にはたくさんのステキなものが溢れていることを、もっともっと感じていこう。


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書きたかったのは「悲惨な話」ではありません



私が書きたかったのは
「介護から生まれてしまった悲惨な話」
「闘病生活の苦しみ」
「患者の孤独」ではありません。

「自分のため」よりも「他人のため」を優先してしまいがちなメニエール病の患者さんに、
どうか一歩踏みとどまっていただければ、という気持ちから、
自分に起こったことを書き残しておこうと、思いました。

メニエール病に苦しむ人の中には、優しくて思慮深い性格の人が多いことは、
私の経験からも良く分かります。
そういう優しい人に
「他の人のことは、ひとまずおいておいて、自分のことを考えて」というのは、
大変難しいことかもしれません。

しかしどうか、私と同じ間違いをしないでください。

誰かが誰かの「犠牲」になることは、
後になって「犠牲にしてしまった」と気づいた人を苦しめます。

介護や看病、仕事、家事、そういうことで大変な生活を送っている方、どうか一歩踏みとどまってください。

「まだ、私は大丈夫」と思っている方、どうか今のうちに一度、休憩してください。

そして残念ながら、メニエール病にかかってしまった方、体調を崩してしまった方、
どうかこれ以上悪化させないように、気を配ってください。
周囲へ助けを求めてください。助けてもらうことは、決して恥ずかしいことではありません。

既にメニエール病や、他の何らかの病気にかかってしまったという方、
どうか心まで病気に奪われてしまわないでください。

確かに私たちは患者です。しかし、24時間患者でいる必要などありません。

心のエネルギーを100パーセント病気に注ぐのはやめましょう。

ご飯を食べるときは、ご飯のことに集中しましょう。
ラジオを聴くときは、ラジオに集中しましょう。
仕事をするときは、仕事に集中しましょう。
料理をするなら、料理を一生懸命しましょう。

「心ここにあらず」の生活をするのではなく、目の前の「今」に集中していきましょう。
そうすることで「患者以外の自分」を取り戻していきましょう。

メニエール病だけではなく、病気のことというのは、他人には分からないところがあります。
家族に分かってもらえない。
友人に、職場の同僚・上司に分かってもらえない。

そういうことが続くと、「自分を大切に思ってもらえない」と思いがちになります。

それでも、私のブログ、ホームページにたどり着いてくださった皆さんを、
私はとても大切に思っています。

私などがたった一人、あなたのことを大事に思ったところで
「そんなもんじゃとうてい足りない」と思われることでしょう。
それでも私は大切に思っています。

いつも、私のブログ(耳のブログ、日常生活のブログ)を読んでくださる方、
登場してくださるお医者様、そして私のブログを読んでくださった皆様へ、
感謝の気持ちと祈りをささげます。

一人でも多くの方が快復することを、私はいつまでもお祈りいたしております。


傷つけてしまったという痛み

先日、ラジオをかけながら仕事をしていました。
すると、レベッカの歌う「フレンズ」が流れてきました。
友情と愛情との間で揺れる心、
最も近い人だったからこそ、離れるとなったら最も遠い人になってしまうという悲しみを歌ったこの歌が、
私は大好きです。

この日も、ラジオと一緒に口ずさみながら、仕事を続けようとしたのですが・・・。

話は変わりますが、私は以前に電話恐怖症になったことがあります。
ある人が、夜中に泥酔した状態で電話をかけてきて、数時間にわたって暴言を吐き、
さらに「家に行く」と恫喝され続けたという経験があるのです。
電話恐怖症はやがて、対人恐怖症にまで発展し、数ヶ月ほどは苦しんだのを憶えています。

私自身がようやく冷静に考えられるようになったとき
「『傷つけてしまった』と後悔する人の傷って、どれほど痛いんだろう」と思うようになりました。
その人にとってみれば、たったの一晩、数時間の失敗だったのに、立ち直れなくなっている私を
目の当たりにすることは、どれほどつらいだろうと。
私の受けた傷なんかより、その人の傷のほうが痛いんじゃないかとさえ、思えました。

最近「アイシテル―海容―」がドラマ化されました。
先日、最終回が放送されたようですね。
「海容」という言葉のとおり「海のように広い心で、許しあうことができる」という点が、
親子間、兄弟間、加害者被害者間などの様々な間にちりばめられた、
奥行きの深い物語だと思います。

私が原作で印象に残っているのは「加害者の痛み」ということです。
これは事件の加害者・被害者だけではなく、親子喧嘩などのレベルであっても
「自分が相手を傷つけていたことに気づく」という瞬間が、
物語のあちこちにちりばめられていて、
加害者の痛みというのは、被害者のそれよりも大きくて深くて、ショッキングで複雑なものという感じがします。

さて、レベッカの歌う「フレンズ」を聞きながら思ったのは
「病気の人とは付き合えない」といった私の元友人のことです。
「ショック」よりも「うまい言い方だという感心」が勝ってしまった、それは本当の気持ちでした。

このたび、どういうわけか
「他人よりも遠く見えて」
「どこで壊れたの」
「二度と戻れない」
といったフレーズを聞きながら、私の元友人がいつか
「自分の与えてしまった痛みに、気づいてしまうのでは」と思いました。
どうしてか分かりませんが、その痛みを想像すると、胸が苦しいのです。

かつて私を電話恐怖症に陥れた人とは、結局、和解ができませんでした。
私の傷が癒えるのに時間がかかってしまい、
謝罪したいという言葉を受け入れられないままになってしまったのです。

それは私の側の治癒力の問題であって、
相手が責任を取るべき範囲というのは、超えていると思っています。

もしもこれから先、元友人が「病気の人とは付き合えない」という言葉について
後悔することがあったとしても、あなたが胸が痛くて俯いてしまうことのほうが、私はつらい。
だから、どうか痛みを引きずるよりは、
「他の人には決して言わない」という方向に、力を注いで欲しい。そう願っています。





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【0】はじめに
【1】再発の兆候」の予兆はあった 
【2】 耳の異常が表れたのは 
【3】 疲労蓄積のサインはあった 
【4】 耳鳴りは始まっていたかもしれない 
【5】 誰かへ、何かへの依存とメニエール病 
 【5−2】 介護に依存するのではない生き方が、できるだろうか?
【6】 独りになるということは 
【7】 アルコールへの依存傾向 
【8】 運命の日と空白の一週間 
【9】 失った友情 
【10】 キレるようになる 
【11】 怒りの焦点がずれていく 
【12】 変化の始まりと焦り 
【13】 自律神経の薬とメニエール症候群 
【14】 体が抗議し始める 
【15】 二度目の運命の日
 【15−2】 どうして疑いもなく、「空に還る」ことを信じられるのだろう?  
【16】 両親のパニック状態への対応に悩む 
【17】 心因性難聴だったらどうしたいか 
【18】 やっぱり素人の浅はかな考えでした。 
【19】 再びの疲労蓄積のサインと新しい出会い 
 【19−2】世界で一番信じてる人 
【20】 別れの理由と衝撃
 【20−2】不謹慎かもしれないが「うまい」と思った絶縁メール
【21】 不安と希望と決意・・・長い間お付き合いありがとうございました。
 【21−2】 心までメニエール病にならないようにしよう
【追記1】書きたかったのは「悲惨な話」ではありません
【追記2】傷つけてしまったという痛み


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