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今日から病気も友達 (MyISBN - デザインエッグ社)

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発病したときのこと

「メニエール病を発病したときのことを、教えてください」というメッセージを頂いております。できる範囲ですが、回答させていただきます。


■ただし、次の点にご注意ください。
私の年齢が17才〜23才であったため、大人の方(精神的、肉体的に)の経過・経緯とはやや異なる点もあるということが一つ。
どうしても、他人のプライバシーに関わることが出てきますので、あえて伏せることがある(たとえ、わかりにくくなっても)、という点がもう一つです。


■その1 17才のとき


■高校の集団健診
初めて「聴力に異常があるのでは?」と言われたのは、高校3年の集団健診で聴力検査を受けた時でした。
この健診は、一般の教科の先生や、生徒の一部が協力して行っていたので、「絶対に異常がある」という断定はできませんでした。
その日は、検査結果としては空欄にしておくので、別の日に養護教諭の行う再検査を受けるように言われました。


■再検査
1週間以内に受けた再検査では、特に異常は見られませんでした。
検査結果は「正常」と記入されることになりました。


■症状はなかったのか?
今、思えば症状はあったのだと思います。
私は体調不良や、精神的なストレスがあると「真っ先に食欲がなくなる」タイプです。また、高校3年といえば、大学受験のストレスがあったり、女性ホルモンのバランスが安定してくることなど、体も変化する時期です。

このころ、吐き気が頻繁にするようになり、時には乗り物酔いがひどくて、通学途中で降車してしまうこと、駅のトイレで吐いてしまうことも、しばしばありました。そんな状態では、学校に遅刻する、授業が聞けない、聞いても頭に入らない、といったことは、しばしば起こっていました。

これらはすべて「大学受験がストレスになっているのだろう」で済ませてしまっていました。
ただし「大学受験のストレス」という説明は、100パーセント正解ではなかったかもしれないが、大いに関係があったと今は思います。100パーセントをメニエール病や自律神経失調症などの身体の問題と決めることも、できなかったでしょう。


■周囲の環境
私自身が「耳の病気かもしれない」と話すことはなかったので(思ってもいなかったので)、周囲に伝わるはずはありません。

この当時、祖父が「結核の疑いがある」とされて、専門の病院へ入院をしました。私たち家族は保健所の呼び出しに応じる必要もありました。
結核は不治の病ではなくなり、イメージは変わってきていますが、高齢の祖父母にとってショックが大きかっただろうと思います。

また、別の近しい親戚が救急搬送され(息子さんが帰宅すると意識がなく、いびきをかいている昏睡状態)、生死の境をさまようという事態も起こりました。いったんは回復したこの人も、リハビリ中の誤嚥事故で再び入院、残念ながら意識が回復しないまま、帰らぬ人となりました。

こんな中では、私の体調不良について、優しい言葉をかける余裕は、誰にもありませんでした。
何よりも、私自身が「受験や対人関係のストレスで体調が悪くなっている。また、人よりは多少重い月経困難症(病気という認識ではなく)。精神状態がよくなれば治る」と思っているのですから、周りに正しい状況が伝わるわけはありません。
私自身も、周囲の人も心配はしながらも、「あんたくらいしっかりしなさいよ!!」という責め立てる口調に変わっていったのをおぼえています。

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■その2 23才のとき


■夏風邪
今年は大変暑い日が続いており、肌が痛いとすら感じられます。
その年は、このような暑さではなかったと思いますが、やはり暑い日の夕方でした。熱が出て悪寒がし、咳が止まらなくなりました。かかりつけの内科の先生に、風邪薬をいただきました。
風邪自体は、早めに治ったのですが、初めて「耳が詰まった感じがする」と気付きました。こんな感じは、人生で初めてというくらい、顔の右半分がしびれたような、妙な感じでした。

内科の先生にお話しすると「耳管狭窄症」の可能性と、それならば通気治療が必要だからと、耳鼻科を受診するよう勧められます。幸いにして近所に開業された耳鼻科の先生がいましたので、そちらを訪ねます。

やはり、「夏風邪をきっかけとした耳管狭窄症でしょう」ということで、通気治療は1週間ほど続けました。特に問題なく治療は終了。また耳の症状があれば受診するということになります。


■急な耳閉感
一カ月後、風邪など特別なきっかけはなかったのですが、やはり耳の詰まった感じがするようになりました。また、車酔いをしたときのような気持ちの悪さも起こります。
開業医の先生は、私のお話を聞いてくださり、「ちょっと、目の動きを見せてもらうね」というと、怪しい黒い眼鏡を取り出しました。メニエール病患者にとってなじみの深い、フレンツェル眼鏡と呼ばれるものです。

「ごめんね、今から、頭を動かすけど、ちょっと怖いと思うねん。でも、強引に動かすのに逆らうと、首を痛めたりするから、ちょっとだけ我慢してね」
「はい」

これが初めての「眼振」に関する検査でした。


■仮の結論
開業医の先生は次のことをおっしゃいました。
●耳には音を聞くための神経と、体のバランスをとるための神経がある
●フレンツェル眼鏡でみると、体のバランスをとるための神経にも影響が出ている
●聴力検査でも、一部の音が聞こえなくなっている

●今、症状を抑えることは、メイロン(一般名:炭酸水素ナトリウム)の注射や、めまいを止める薬、漢方薬の服用でできる
●ただ、短期間で症状が再発するようなら、対症療法ではなく、継続して薬を飲んでコントロールする必要があるかもしれない
●これは、脅かすつもりで言っているのではなく、薬さえ飲めば抑えられる症状だということを伝えておきたいから、心配しないように言っている

どこかで「そんなことには、ならないだろう」と思いながら、お話を聞いていた自分は、「若かったんだな」と思います。よくいえば楽天家で自信家。悪く言えば考えが甘く、なんとかなるといういい加減な人。若いとはそういうことですね。


■周囲の環境
私は大学院への進学が決まっていたのですが、自分の希望する研究室がなくなる(あえてぼかして表現します)ことが決まっていました。

とりあえず私を引きうけて下さることになった教授は、どうせ第一志望には戻れないなら、視野を広げて違う進路も考えてみてはどうか、という意見をおもちでした。
一方で自分は、どう頑張っても、第一志望には戻れないのだから、新しい道を早く確定して、研究室の迷惑にならないようにしたいと思っていました。
この考えの違いについて、話し合う機会がないまま、時間が経過。

自分は研究のスタートが遅れることになるのだから、と、進学前から過剰適応ともいえる努力をするようになってしまいました。


■破たん
やがて、耳鼻科の開業医の先生のもとを、三たび訪れなければならないときが来ます。
大学院進学を目の前にして、強烈なめまい発作に襲われたのです。

開業医の先生は、メニエール病という病名を初めて出されました。
そして「何かストレスがたまっていませんか?」と聞いてくださいます。

大学院進学のことと、婦人科の症状が出てきたことをお話します。

そして「高校生だった時に、聴力の異常を指摘されたのですが、再検査で異常がなかったのです。そんなことは忘れていたのですが、治っては再発を繰り返す病気の可能性があるとお聞きして、関係があったのかもしれないと思いました」とお話ししました。

「あるでしょうね」
「あるんですか?」
「他に症状がありましたか?」
「・・・?」
「今、めまいの他にも、道を歩いていてふらつく、車酔いのような感じの吐き気がする、って言ってるよね? そういうことが、あったんじゃないかなぁ?」

「それと、大学院進学の予定と聞いたんで」
「はい」
「脳の病気であるとか、ほかの疾患の可能性を否定しておきたいね。いろいろ事情はあるにせよ、すっきりして、頑張りたいもんね。公立病院で、検査のできるところを紹介しますから、MRIなどの脳の病気を否定するための検査、メニエール病の程度を調べる検査を受けてみましょう」
「はい」

こうして公立病院(内リンパ嚢開放術を受けたのとは別の、地元の公立病院)を紹介されます。



■人間関係の崩壊について

高校生だったときに、自身の体調不良や家族・親戚の看病で、友人との約束ができない時期がありました。時間がないことと共に、約束をしても、自身の体調の変化・病人の急変によっては、約束を守れないことがあります。

ただ、自分が高校生だということは、友人たちも高校生なのです。

たとえ大人になっていても、身の回りに病気の方がいない人にとっては「ごめん、体調不良で約束できない」「看病があって急に帰らなくてはいけない」ということが続くと、「病気・看病は口実で、実は自分と会うことが嫌なのでは?」という不安を抱かせるものです。私はそれに配慮ができていませんでした。

ある時、友人が爆発的な怒りをぶつけてきたことがありました。その時は、私が「なかなか会えなくてごめん」と謝ることでおさまりました。
しかし、私にとっては、爆発的に怒られたことの恐怖が大きく、次に会うことができなくなっていきました。

「突然怒って悪かったと思う。だけど、いつまでもビビられていたら、こっちも気分が悪い」

ますます、友人の怒りは増幅していき、最後には修復が不能なほどの打撃を受け、関係は崩壊します。

友人は、その後も、なんとか謝罪をしようとしてくれたのです。1カ月後、5カ月後、7カ月後(そして5年後)に、連絡はありました。
私の気持ちが落ち着くまで待ってくれたのだと、今ならばわかります。
ただ、病気や看病が終わったわけではなかったので、忙しさに取り紛れて、返事はできないままになってしまいました。

23才になっても、私の心には恐怖感が植え付けられていました。

冗談であっても「ほんとに病気なの?」とからかわれると「もしかしたら病気は口実で、サボっているとか、甘えていると受け取られるかもしれない」と、あらゆることにびくびくするようになりました。
大学院での研究について「スタート自体が遅れているから、私の能力は劣っているに違いない」という思い込みも、自分を委縮させていました。
ちょっとしたからかいの言葉、無理解からくる言葉などが、必要以上に深く、心に突き刺さるようになりました。

無理解と書くと「理解しないほうに責任がある」と受け止められるかもしれません。
ただ、身近に病気の方がいない場合には、なかなか理解するのは難しいです。これは高校生でも、大学生でも、社会人でも同じでしょう。
私だって、身近に結核や、脳梗塞などの人がいなければ、必要以上にビビっていたかもしれないし、逆に気楽に考えすぎていたかもしれません。

「理解しろ」というのには、限界があるのです。

私の身近な人間関係が崩壊したのは、病気のせいではありません。
ほかの人への説明不足、配慮の不足、「あなたのことを大事に思っているが、今は事情があって、会ったり話したりできない」という言葉が足らなかったことが原因であり、私は自分で人間関係を崩壊させたのだと思っています。
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